明治25年(1892年)の創業以来、明治、大正、昭和、平成、令和と長きに亘り科学機器の製造・販売を通じて我が国の技術水準向上と工業発展に貢献できたことを誇りに思い、これもひとえに多くのお客様に支えられ、そして協力企業様のご指導とお力添えの賜物と心から感謝しております。
社員一同、今一度、創業の精神に立ち返り、一層の努力をしてまいる所存ですので 今後ともご指導、ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。
明治〜大正
明治25年(1892年) | 業界先達の一人であった創業者・田中杢次郎が大阪・道修町から上京,医療器械、化学薬品輸入商で修行ののちこの年に独立し、東京日本橋本町で個人商店を創業。牛乳用「防腐器」、「携帯用灯油ランプ」等を製造販売。また,32年には他に先駆けレントゲン器械の輸入販売を開始。 |
明治34年(1901年) | 東京丸の内・三菱8号館に田中合名会社を創立。 科学機器を欧州から輸入販売すると共に、工場を下谷竹町に置き国産化を図る。文明開化の波に乗り、業容は順調に拡大。 |
明治40年(1907年) | 田中式600倍顕微鏡が完成。 本格的な国産第1号と言われ、後に皇太子(後の大正天皇)へ献上。 |
大正7年(1918年) | 資本金100万円の『田中商事株式会社』に改組。 本社ビルを麹町区有楽町の数寄屋橋際(当時の朝日新聞社向かい、現ニュートーキョー)に新築・移転。 |
大正9年(1920年) | 杢次郎は『東京理化学器械同業組合』の設立に参画して、初代組合長を勤める。 |
大正11年(1922年) | 自社総合カタログの原版を『東京理化学器械同業組合』に提供、業界カタログ『TRK』が刊行される。これが永らく業界標準とされ、戦後の『NRK』に受け継がれる。 |
大正12年(1923年) | 関東大震災に遭い本社全焼。
赤坂区南青山の社長宅敷地に社屋を再建・移転。当時の陸海軍、大学、研究所、試験場等に科学機器を供給し、東京を代表する科学機器会社の地位を確立。 |
昭和前期
昭和3年(1928年) | この年の10月、東奔西走で無理を重ねた杢次郎は病に倒れ遂に帰らぬ人となる。享年67歳。後を当時東京大学経済学部に在学中の長男・陽太郎が継ぐ。 |
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昭和9年(1934年) | 大連に出張所を開設し、当時の満州に販路を拡げる。この出張所は日本の大陸政策によって生まれ、終戦まで旧満鉄、旧満石等進出企業の試験研究部門をサポート。 出張所の責任者・須藤豊吉は、戦後引き揚げてから本社の営業部門を取り仕切り、後に第3代社長を務めることになる。 |
昭和15年(1940年) | 社名を現在の『田中科学機器製作株式会社』に改める。 11月に『株式会社東京精機製作所』を買収して製造部門を強化し、陸海軍の指定工場となる。 |
昭和18年(1943年) | 2月に『日本理化学機器工業統制組合』が設立される。 |
昭和19年(1944年) | 杢次郎が設立に関わった『東京理化学器械同業組合』が解散。 |
昭和20年(1945年) | 5月、戦災で本社全焼。次いで終戦を迎え社業は一時頓挫。 しかし陽太郎は、10月に業界団体再建を図る有志の一人として活動を始め、12月には『日本理化学機器協会』の創立に漕ぎ着けて理事に就任する。 |
昭和24年(1949年) | 連合軍司令部の太平洋岸製油所操業再開許可によって漸く製油所の整備が始まり、当社は石油試験器の製造を再開。 以後これを主力製品として社業復興に努めることになる。 |
昭和32年(1957年) | 出光興産株式会社徳山製油所の建設に伴い、山口県徳山に徳山出張所を開設。同製油所の品質試験ラボの立ち上げのお手伝いをする。 以降、全国的に製油所の新・増設ラッシュとなり、当社はさらに石油試験器専業の色彩を強める。 |
昭和後期
昭和40年(1965年) | 自動試験器開発に乗り出す。順次機種を増やして国内トップメーカーの地位を確立。 |
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昭和43年(1968年) | 本社を千代田区神田・和泉町に移転。第2代社長・田中陽太郎が在任40年の記録を残して退く。須藤豊吉が第3代社長に就いて、以後5年間勤める。 下平武が、JIS臨時委員として石油類試験器のJIS制定に参画。 |
昭和45年(1970年) | 高性能卓上形電気炉「Softemp」シリーズ発表。第一次オイルショック時に省エネに貢献。 その構造は、以後業界の主流となる。 |
昭和49年(1974年) | 下平武、第4代社長就任。 |
昭和50年(1975年) | 中国の石油関係者との交流開始。訪中・技術交流し、61年には技術移転契約を結ぶ |
昭和51年(1976年) | 世界の競合メーカーに先駆けて引火点試験器のマイクロコンピュータ化に成功。信頼性が特段に改善したので、これが発端で輸出促進に繋がる。中国の石油業界との交流に乗り出す。下平武は同業各社や石油連盟の専門家を誘い、東京科学機器協会理事長・故矢澤英明氏に団長をお願いして技術交流に出かける。 |
昭和52年(1977年) | 「Softemp」シリーズの実績で発明功労賞を受賞。 |
昭和55年(1980年) | 天津自動化機器展に単独出品。次いで60年米国 PITTCON展および西独ACHEMA展に単独出品。以降海外展示会に出品し海外での知名度を高める。 |
昭和56年(1981年) | 東京都足立区綾瀬に研究所を開設。技術・製造部門を移転。 |
昭和57年(1982年) | 米国の標準規格作成団体ASTMの石油部門D2メンバーとなり、以後10余年活動。現在は現社長の下平克彦と営業部長の池田響が引き継ぎ国際的に活動中。 |
昭和58年(1983年) | 本社機構も綾瀬に移転・統合。現在に至る。 ISO/TC28国内委員会委員として国際規格の審議に参画。 |
昭和61年(1986年) | 中国石油化工総公司から依頼を受け、この年から4年間かけて手動試験器の生産技術を大連のメーカーに供与。LAS導入研究委員会(石油学会)に参加して、製油所試験室の総合自動化システム研究に着手。 |
昭和63年(1988年) | 「曇り点測定装置」の技術開発に対して、発明大賞笹川特別賞を受賞。特許登録。 |
平成
平成元年(1989年) | 永年に渡る様々な標準化事業への功績が讃えられ、下平武が通産大臣表彰を受ける。蛍光X線硫黄分計が製品ラインに加わる。 米国の同業最大手Precision社と製品のOEM供給契約に調印。 |
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平成3年(1991年) | 科学技術振興の功績で科学技術庁長官賞を受賞。 |
平成7年(1995年) | 中国・上海に小規模の合弁会社『上海田中科学儀器有限公司』を設立し、中国市場に石油自動試験器の供給を開始。以来中国の石油試験近代化を後押し。 |
平成9年(1997年) | 米国ASTMで常圧蒸留試験規格D86の全面改訂に対する貢献で、現社長の下平克彦が表彰を受ける。 |
平成12年(2000年) | 『上海田中科学儀器有限公司』を100%出資の独資組織に改組し、現地生産体制を強化。 10月、新技術開発プロジェクトが『創造法』による研究開発事業として都知事認定を受ける。 |
平成13年(2001年) | 長寿に恵まれた第2代社長・田中陽太郎が、この春98歳で永眠。これで日本理化学機器協会創立メンバーは全員鬼籍に入る。 |
平成14年(2002年) | 米国ASTMに提案した「空気加圧式流動点試験法」が「ASTM D6749」試験法として採択され,石油類流動点試験の合理化・高精度化に寄与する。 |
平成16年(2004年) | 第4代社長・下平武が在任30年にして退き、下平克彦が第5代社長に就任。下平武は会長として後進の指導にあたる。 |
平成19年(2007年) | 新社屋竣工 |
平成20年(2008年) | 予てから輸出を促進してきたが、輸出割合が75%を超え,以降安定的に海外市場中心の売上げ構成となる。代理店を30か国・地域に設定し,70余国に輸出,併せて現地でのメンテナンス体制を整える。 |
平成23年(2011年) | 米国ASTMに提案した「小型試験管式曇り点試験法」が、「ASTM D7683」試験法として採択される。この前後から、この技術と、先にASTMに採択されたD6749自動流動点試験法の技術を搭載した「MPCシリーズ」が本格的に内外の需要家に普及する。 |
平成25年(2013年) | 東日本大震災の教訓から,東京湾北部大地震に対応した企業継続計画(BCP)を策定して実施に移す。続いて26年にはパンデミック対応BCP,27年には水害対応BCPを策定し,危機対応体制を整備する。 |
平成27年(2015年) | 「企業理念」とこれを実現するための「行動指針」、「ブランドステートメント」を制定する。 |
平成28年(2016年) | 東宝映画「海賊とよばれた男」の技術協力。 |
令和以降
令和2年(2020年) | 流動点・曇り点試験器「MPCシリーズ」のmpc-6が経済産業省から2020年版「グローバルニッチトップ企業100選」に認定される。
創業してこの年で128年。このうちの半分の長きに亘って基礎を創った第4代社長・(前相談役)下平武が91歳で永眠。JIS、ASTM、ISO活動と業界団体活動に取組み、理化学機器業界の発展、さらには日本のみならず世界の石油試験業界の発展に貢献。 |
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